3月16日(火)

できるだけ手書きをするようにしている。この日記をつけようと思ったのも、1日の振り返りをすることは非常に有効だからという研究結果を知ったからであったが、そこにもう一つ書いていたのが、それを手書きで行うことによってより有効であるということだった。なんとなくそりゃ手書きの方が有効だけど、時間をかけてまで手書きをするメリットはあるのだろうかと、手書きの有効性を私自身は疑っていた。

昨日一昨日ぐらいから何がキッカケになったのかは忘れてしまったが、手書きをしっかりするようにしてみた。すると、集中力が格段に上がった気がする。あるTweetには、ADHDは文字を書くことと料理と掃除を嫌がるが、それら全てが前頭葉の血流を増加させるし、それをすることこそADHDにとっては有用であると書いてあった。本当にその通りだと思う。集中力が増したことによって、今までは本当に目先の情動に流されてしまって、やるべきことという概念がすっぽり脳みそから抜け落ちてしまっていたのだけれども、手書きでしっかりと文字を書く習慣ができるようになってから、面倒くさいことにもそれなりに取り組めるようになってきた。日常生活が少しずつ楽しく感じてきた。

そうした効果のおかげもあって、ここ何週間か全然できていなかった自分を高める勉強に取り組むことができた。今日は東大世界史の問題に取り組んだ。問題レベルとしてはメチャメチャ難しいというものではなくて、素直に問題文が要求していることに答えれば普通に満点を取れる問題ばかりである。そして、答えなければならない内容も、そこまでマニアックなことでもない。だからこそ、純粋に世界史のことを理解しているのかを問われる問題であるなと感じたし、これをやることによって、自分がこれから世界史を教えていく上での一つの指針が見えてきたような気がした。

一方で、本来の東大の受験生は、これにプラスしてもう一つ社会科目を受験する。ということを考えると、とてつもない。とても高校3年間で完成させられるものではない。そういう生徒を教えることができれば、それはそれで幸せなのだろうが、その次元までいくと私の教授力というのはほとんど意味がなく、単に抜け漏れなく知識を伝達できたかどうかにかかってくるのだろうなと感じる。

私にとっては、京大や阪大で、特に阪大世界史で戦えるだけの力を身に付けさせる、これが今の職場でやっていく上で一番重要なことだ。阪大世界史と対峙していくためには、グローバルヒストリーへの関心・知識が必要だ。東大世界史の大論述もよくそういった観点で出題されている、ということを考えると、東大世界史に真っ当にぶつかることで、私の主戦場となる阪大世界史への一つのヒントというのが見つかってくるのだろうと思う。しばらくは時間が空いていれば、東大世界史と格闘していきたい。

3月14日(日)

今日は散髪に行くということもあり、割とスッと起きることができた。今までなら結構グズりながら家を出ていたが、落ち着いた状態で出られた。散髪に行って帰宅しても13時だったので、普段の休日に比べれば圧倒的に色々とできる時間があったが、結局は何も成し遂げられなかった。少しは手書きしようという気持ちにはなれたが、時間の使い方を少し記録したぐらいなので、脳への刺激というほどではない。

一応今日やりたいことを書き上げたが、そのほとんどを実現できていないというのがとても悲しい。結局何も生み出せていないということになる。久しぶりにhiphopの名曲に心揺さぶられてしまい、そこで大幅に時間をロスしてしまった。とはいえ、良い曲を復習することによって、自分がちゃんとhiphopが好きなんだなということを再確認することができた。やはりBUDDHA BRANDの人間発電所NIPPSパート以外はちゃんとラップできるし、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDにしても音が流れた瞬間にぶっ飛んでしまっていた。

今日はちゃんと本が読みたかった。が読めなかった。薄々気づいていたことではあるが、ベッドがある部屋で自分を高めるための行動をとることはなかなかできない。近くにネットカフェもあるし、それを安く利用できる方法も開発することができているので、あとはそれを面倒くさがらずに利用するというだけだ。決して甘い状況ではない。今の職場を離れざるを得ない状況は全然考えられるし、そうなった場合に自分自身に価値を見出せてもらえるような人間になることが必要である。今更人の暖かさを求めて迷走している場合ではない。ただただ感情抜きで自分のやるべきことをやるべきだけである。常日頃生徒に言っていることを自分自身が実行すべき番だ。

3月13日(土)

昨日は父の還暦祝いだった。あまりにも月並みだが、父も歳を喰ったし、私も歳をとった。幼少の頃、父親が38歳だと言っていた記憶がふんわりとあるが、そこから22年ぐらい経ってしまったということだ。また、このままあっという間に22年ぐらい経ってしまうのだろうか。そうするとその頃には50歳ぐらいだ。ただただ不安しかない。少しはまともな50歳になりたいとは思うので、少しずつでも良いから毎日勉強に励んで、少しは社会にとって有用な人間でありたい。

今日は一年の振り返りに時間を費やした。最近はやはり集中力が極めて散漫であるので、その唯一の仕事すらも遅々として進まなかった。新しいiPadを購入して、キーボードの打ちやすさとライブ変換に快感を感じているという僅かな精神的快楽のために、少し作業は進歩したものの、これが無ければ本当に何がどうなっていたのかというレベルで何もしていないのではないだろうか。何日か前に、自分がやらなければならないことを書こうということを書いた気がするが、結局それ自体も書けていない。明日でも外出して、気分を少し入れ替えた上で、次のステップへの準備を進めていければと思う。

一日の振り返りをすることで、結果的に仕事の効率が20%ほど上昇するという言葉を信じてこうした日記を書いているが、少しネックだなと感じていたのが、これがタイピングで入力しているというところである。やはり手書きの方が脳への刺激が多い分、有効であるというtweetを閲覧した。今日は世界史の論述問題を解いてみたが、やはり集中のしやすさという点で、手書きは非常に有効であった。新年度が始まるとどうしても手書きで何かするという暇も無くなってしまうかもしれないが、この春休み期間ぐらいは、できるだけ新しいapple pencilを使いながら、頭も訓練していければと思う。

方眼紙を使ったタスク管理の記事をみて、面積で所要時間を表すという発想が面白く感じたが、goodnoteであればそれもしやすいと思うので、自分なりに取り入れていきたい。一方で、goodnoteになってしまうと、PCからの入力ができないのが課題である。タスク管理などの気が向かない作業はできるだけiPadに集約し、PCでしかできない作業のみをPCでという方が割り切りやすくはある。ただ、とはいえiPadでできる作業は限定されており、一旦iPadでやれるだけやってみるテストをしてみてもいいかもしれない。

世界史にしても、学級運営にしても、陸上競技にしても、まだまだ学ぶべきことは山ほどある。やる気は自分の中でもあると信じているので、惰眠にそれを潰されてしまわないよう、まずは明日の初動から気をつけたい。と言いながら、それでも私の中の睡眠欲はあまりにも強く勝てる相手ではないのだけれど。。。

3月11日(木)

地球のちょっとしたクシャミが日本人の生活を大きく変えてしまってから早くも10年が経ってしまった。備忘録として記すが、当時は高2から高3にかけての春休みで、震災が起きた当時は部活中であった。顧問が車のテレビを見ながら「とんでもないことになってる」とえらく騒いでいたのが印象的である。そして、家に帰ってテレビをつけると、とんでもない地獄がテレビに映し出されていた。歴史を教える1人の人間として、やはりこうした出来事の歴史的影響というものを考えてしまうのだが、あの映像は日本人の心を確実に抉ったのではないだろうか。やはり自然というものに対して、人間の力というのは圧倒的に無力である、と私自身は感じさせられた。

一方で、実際に現地に行った人達が異口同音に放つのは、現場に行って印象に残っているのは「臭い」であるということだ。油の臭い、ヘドロの臭い、死体の臭いなどそうした強烈な臭いが体に染み付いてしばらく離れなかった、ということが何人かのインタビューに書かれていた。当時近畿地方に住んでいた私は視覚ででしか東日本大震災を捉えることはできていないのに何やら感傷的になったものだが、こうした話を複数聞くことによって、自分は何も分かっていないのではないのだと痛感させられた。動画をみて分かった気になって偉そうにしていた自分をただただ恥じている。

今日は防災に関する教育を少し実施した。一応阪神淡路大震災は経験したものの、当時1歳ぐらいで、もちろん何も覚えていない。それを除けば、まともに災害は経験したことないし、被災地に訪れたこともない。真面目にはしたが、それでも重みのある話をするのは難しい。うちの職場は若手がかなり増えて、阪神淡路大震災のこともろくに知らない同僚が増えていく中で、そうした防災教育をそれぞれの教員に丸投げしてしまうのは、やはり少し残念であるように感じられる。もちろんクラス規模によってできることは大きく変わりはするが、それでも何かしら我々自身が共通した認識を持っておくべきだろうし、それを異口同音に生徒に伝えるということも非常に大事であるように思う。何よりも、その内容面を検討する時間があるだろうにもかかわらず、何年間もそれを放棄してしまっている指導部に遺憾の意を感じざるを得ない。私自身は生徒に学んだことを話させるのみで終わってしまったが、意外と生徒は話を聞いているもんだと感心した。

明日はついに国公立大学の後期入試である。本日を以て、私が担任する生徒への進路指導は全て終了した。色々と反省すべき点があまりにもありすぎて、今からここに書くほどのゆとりもないが、同僚が今よりもさらに上を目指そうという点で、モチベーションを共有できているのは非常に嬉しく感じている。前期入試の終了後から私自身は精神的に衰弱しきっていたが、三日連続でこうやって振り返りの日記を書くまでには回復することができたので、こうやって自分と文章を書くことで討論して、まずは今までの自分が何をしてきたのか、どの部分に課題があったのか、それをどうやって改善すればいいのかということについて、この一週間ぐらいでぼちぼち考えられればと思っている。ただ、特に私自身が問題だと感じているのが、生徒の読解力の低下という部分なので、来年度の世界史の授業においては、今までのように単なる知識伝達の授業ではなくて、もう受験や教科書内容を度外視して、読解力育成に努めていかねばならないと感じている。今までやったことのないようなことに挑戦していかねばならないが、少しずつそう言ったところも準備していければと考えている。

3月10日(火)

かなり夜も更けた。カフェインをかなり摂取するようになってしまって、睡眠に関する脳の機能が少しおかしくなってしまったのかもしれない。そろそろカフェラテの有り難みをあまり感じなくなって、段々と習慣化してきてしまっているところがあるので、これを機にもう一度お茶を飲む生活に戻していければと思う。

今日は京都大学の合格発表であった。現役高校生時代の私がしっかりと敗北した大学だ。非常に喜ばしいことに世界史を受け持っていた生徒が合格した。今回の問題については非常にベーシックなものであったから、何か自分が特別貢献したというわけでもないが、とりあえずは私自身がマイナス要素にはならなかったという点でホッとしている。

これは常々職場でも言い続けていることだが、京都大学の世界史自体はそこまで難しいものではなく、むしろ問題自体は大阪大学の方が全然難しい。しかし、そうしたベーシックな作りの問題だからこそ、読解力や文章構成力・表現力というのが正確に測れてしまうという感じがする。春先に河合塾の講師も言っていたが、やはり世界史の答案を見るだけで、その生徒が受かるか受からないのかというのが何となく察せられる。世界史の力を磨くからこそ世界史の点数が取れるのではなく、全教科のベースとしての基礎的な理解力・読解力・表現力があるからこそ、世界史のテストもできてしまうということなのだろうと私は推測している。だから京大合格のために世界史教員ができることといえば、世界史の問題の解き方を無理やり矯正するなどといった烏滸がましいことではなく、ただただ正確に漏れなく世界史の知識を伝授することではないかと思った。そういう意味で、私自身がマイナス要素にならなかったという点でホッとしている。

昨日は自分のやるべきことを整理しなければならないと書いておきながらできなかった。明日は成績処理であったり、防災関連行事であったり、私としては気の乗らない業務が立て込んでいる。同時に最後に生徒に指導をしてやる機会でもある。昨日までは本当にただただ職場にネットサーフィンをしにくるぐらいで完全に給料泥棒と化していたが、昨日夜にこうやって振り返りを書くことによって、今日はそれなりに充実した1日を過ごすことができた。まずは最後の指導の機会を自分としては全うしたい。どういう結果であれ、後悔のないようにするというのが非常に重要なことだ。また、気の乗らない仕事はたくさんあるが、そこら辺は常々自分自身が生徒に指導しているように、感情に流されてしまうのではなく、淡々とやるべきことをやらねばならない。あとは少しずつ新しい年度に向けて具体的な案を練っていくことも忘れずに。。。

3月9日(火)

前回の記事が前期入試について書いた。今日はもう前期入試の発表が一段落した。時間が経ってしまった。共通テストが終わった時点でかなり腑抜けてしまったが、前期入試が終わると、腑抜け具合に拍車がかかってしまった。本当に前期入試後に自分した仕事と言うものは片手で数えられるぐらいではないだろうか。

そもそも生活習慣が段々と取り返しのつかないぐらい乱れつつある。寝る時間が遅くなっている。もちろん起きる時間も遅くなっているし、家を発つ時間も遅くなっている。出勤してもしばらくボーッとしているし、何もできない。大体それが午前中いっぱいぐらい続いてしまう。もう戦う大義名分を失ったがために、このような抜け殻状態になってしまっているのだろうが、それでも給料をもらっている以上は何か生産的なことを成し遂げなければならない。まずは明日もう一度自分のなすべきことは何なのか整理しよう。あとは生活習慣が乱れていると言うこともあってか、聴覚過敏が余計にひどくなっているような気がする。誰かが話していると、もうその時点で何も手につかない。そもそも集中力が湧かないのを誰かに責任を押し付けてしまっていると言ってもいいが、それならそれで自分なりに集中できる環境を作り上げる義務がある。

給料分の働きをするために、この今の時期に何ができるのかと言うことと向き合うことが大事だ。今の時期だからこそできることはたくさんある。それこそ、今年度の結果を踏まえて、来年度以降やりたいことというのは頭の中でたくさん湧いてきている。それをサステナブルなものとして実行できるように、具体的なやり方というのを色々と構築して、スムーズに導入できるようにしたいし、後輩にも色々と伝承すべきことがある。やるべきことはたくさんある。

2月25日(木)

もう2月も終わりそうだ。今日は国公立大の前期入試だった。自分がまともに教科指導してきて初めての前期入試だった。京大については明日試験なので問題を待つしかないが、阪大世界史については少し拍子抜けした。昨年ほどの特殊な問題構成ではなかったからだ。しかし、やはり問うていることは難しかった。私の師匠ですら何を書けばいいのか分からないと匙を投げてしまうぐらいに、何を聞いているのかが分からない問題だらけだった。逆に言うと、これからの阪大世界史対策において重要なのはそこであって、何を聞いているのかが分かって仕舞えば他の受験生を出し抜くことができるのではないかと思う。そして、今までは阪大と京大を一緒に講座を組んでいたが、この両者の世界史は全く違う以上、次クールの論述対策講座についても色々と考えなければならない。京大については問題文を丁寧に読み込むことでハッキリと何を聞いているのかがかなり明確になるが、阪大はむしろ連想ゲームのようなもので、あるtermからとりあえず思い出せるだけ思い出して、あとはいかに題意に沿ってそうなことを盛り込めるかという勝負になる。と言うことは、阪大世界史志望者については、その連想の訓練をしていく必要があるのだが、一方でこれは非常な難題で、阪大外国語志望者は恐らくそこまで読解力に強さがない。だからやはり次クールで私自身が一つのプロジェクトとして取り組間なければならないのは、読解力の育成だ。

とはいえ、日々のプラスアルファ程度の取り組みで読解力が育成できるのかというと、もちろん恐らくそうではない。多くの先達がこの難題に取り組んできて多少の解決策も提示されているのだろうが、残念ながらそうした大掛かりな仕掛けを作る気力もなく。そうした行き詰まりの中で何となく私の中に見えているのが、そもそも読解力を育成するための前提として、主体性が求められているのではないだろうかということである。まず読解というのは、ある人が眼前にあるテキストに向き合うという単純な行為であるが、多くの現代っ子はそうした単純な行為に精神が耐えられない。文章のもつ強みに負けてしまっているように見える。文章の強さに負けないためには、根気強く文章に向き合っていくことが絶対に必要で、無理矢理読まされているという意識を持った中では絶対に読解力は身に付かない。自らが文章と向き合う必要があるという覚悟を持って、自ら文字の森の中に足を踏み入れていかなければ、読解力は身に付かない。だから、主体性が読解力育成の前提として必要となるのではないかと考えている。

そして、問題はその主体性をどのように身につけるのかということだ。私としては、実は何をしても主体性は身につくのではないかと思っている。問題なのは、それをどこまで心を込めて継続できるかということにあると思う。毎日ちょっとした問題を解くということを続けるのでもいいと思うのだが、それが単なる惰性になってしまった時点で、あまり意味を持たなくなってしまう。なぜなら惰性は流れに身を任せることであり、主体性とおよそ逆のことだからだ。

では、どうすれば心を込めて継続することができるのか。私は目に見える形で蓄積していくことが大事だと思う。私自身、高校時代の部活で毎日毎日練習日誌を書いた。練習が全くない日も(後日まとめて書いたりもしたが)含めて休まず書いた。高校時代に何か大それたことをやったと胸を張って言えることはなかなか無いが、唯一高校時代に残した自分自身のレガシーとしてはその練習日誌を挙げることができる。大事なのは毎日書くということだ。そして、そうした毎日の蓄積というのは、一種異様な雰囲気を醸し出す。自分で書いたものなのに、自分自身がそれに圧倒されそうになる。一方で、その存在というのは私の大きな支えともなった。一種の成功体験になったと言ってもいい。だから大事なのは毎日残すこと、そしてそれを蓄積し、物理的に参照できるようにすることだ。

私の高校時代のボスは20人程度の日誌に毎日のようにコメントを返していたが、それはそれでこちらの負担が膨大となる。そこまで負担が増えずに、それでも毎日の習慣として何かを刻むことができるかどうか、そしてそれを見返す形で物理的に残せるかどうか。これを2月中に考えて何か答えを出すことができればと思う。そして、そこから主体性を生み出し、読解力に限らず、学力の向上というところにつなげていければ、自分が教員として給与をもらう意味がやっと出てくるのではないだろうか。