2月25日(木)

もう2月も終わりそうだ。今日は国公立大の前期入試だった。自分がまともに教科指導してきて初めての前期入試だった。京大については明日試験なので問題を待つしかないが、阪大世界史については少し拍子抜けした。昨年ほどの特殊な問題構成ではなかったからだ。しかし、やはり問うていることは難しかった。私の師匠ですら何を書けばいいのか分からないと匙を投げてしまうぐらいに、何を聞いているのかが分からない問題だらけだった。逆に言うと、これからの阪大世界史対策において重要なのはそこであって、何を聞いているのかが分かって仕舞えば他の受験生を出し抜くことができるのではないかと思う。そして、今までは阪大と京大を一緒に講座を組んでいたが、この両者の世界史は全く違う以上、次クールの論述対策講座についても色々と考えなければならない。京大については問題文を丁寧に読み込むことでハッキリと何を聞いているのかがかなり明確になるが、阪大はむしろ連想ゲームのようなもので、あるtermからとりあえず思い出せるだけ思い出して、あとはいかに題意に沿ってそうなことを盛り込めるかという勝負になる。と言うことは、阪大世界史志望者については、その連想の訓練をしていく必要があるのだが、一方でこれは非常な難題で、阪大外国語志望者は恐らくそこまで読解力に強さがない。だからやはり次クールで私自身が一つのプロジェクトとして取り組間なければならないのは、読解力の育成だ。

とはいえ、日々のプラスアルファ程度の取り組みで読解力が育成できるのかというと、もちろん恐らくそうではない。多くの先達がこの難題に取り組んできて多少の解決策も提示されているのだろうが、残念ながらそうした大掛かりな仕掛けを作る気力もなく。そうした行き詰まりの中で何となく私の中に見えているのが、そもそも読解力を育成するための前提として、主体性が求められているのではないだろうかということである。まず読解というのは、ある人が眼前にあるテキストに向き合うという単純な行為であるが、多くの現代っ子はそうした単純な行為に精神が耐えられない。文章のもつ強みに負けてしまっているように見える。文章の強さに負けないためには、根気強く文章に向き合っていくことが絶対に必要で、無理矢理読まされているという意識を持った中では絶対に読解力は身に付かない。自らが文章と向き合う必要があるという覚悟を持って、自ら文字の森の中に足を踏み入れていかなければ、読解力は身に付かない。だから、主体性が読解力育成の前提として必要となるのではないかと考えている。

そして、問題はその主体性をどのように身につけるのかということだ。私としては、実は何をしても主体性は身につくのではないかと思っている。問題なのは、それをどこまで心を込めて継続できるかということにあると思う。毎日ちょっとした問題を解くということを続けるのでもいいと思うのだが、それが単なる惰性になってしまった時点で、あまり意味を持たなくなってしまう。なぜなら惰性は流れに身を任せることであり、主体性とおよそ逆のことだからだ。

では、どうすれば心を込めて継続することができるのか。私は目に見える形で蓄積していくことが大事だと思う。私自身、高校時代の部活で毎日毎日練習日誌を書いた。練習が全くない日も(後日まとめて書いたりもしたが)含めて休まず書いた。高校時代に何か大それたことをやったと胸を張って言えることはなかなか無いが、唯一高校時代に残した自分自身のレガシーとしてはその練習日誌を挙げることができる。大事なのは毎日書くということだ。そして、そうした毎日の蓄積というのは、一種異様な雰囲気を醸し出す。自分で書いたものなのに、自分自身がそれに圧倒されそうになる。一方で、その存在というのは私の大きな支えともなった。一種の成功体験になったと言ってもいい。だから大事なのは毎日残すこと、そしてそれを蓄積し、物理的に参照できるようにすることだ。

私の高校時代のボスは20人程度の日誌に毎日のようにコメントを返していたが、それはそれでこちらの負担が膨大となる。そこまで負担が増えずに、それでも毎日の習慣として何かを刻むことができるかどうか、そしてそれを見返す形で物理的に残せるかどうか。これを2月中に考えて何か答えを出すことができればと思う。そして、そこから主体性を生み出し、読解力に限らず、学力の向上というところにつなげていければ、自分が教員として給与をもらう意味がやっと出てくるのではないだろうか。