3月11日(木)

地球のちょっとしたクシャミが日本人の生活を大きく変えてしまってから早くも10年が経ってしまった。備忘録として記すが、当時は高2から高3にかけての春休みで、震災が起きた当時は部活中であった。顧問が車のテレビを見ながら「とんでもないことになってる」とえらく騒いでいたのが印象的である。そして、家に帰ってテレビをつけると、とんでもない地獄がテレビに映し出されていた。歴史を教える1人の人間として、やはりこうした出来事の歴史的影響というものを考えてしまうのだが、あの映像は日本人の心を確実に抉ったのではないだろうか。やはり自然というものに対して、人間の力というのは圧倒的に無力である、と私自身は感じさせられた。

一方で、実際に現地に行った人達が異口同音に放つのは、現場に行って印象に残っているのは「臭い」であるということだ。油の臭い、ヘドロの臭い、死体の臭いなどそうした強烈な臭いが体に染み付いてしばらく離れなかった、ということが何人かのインタビューに書かれていた。当時近畿地方に住んでいた私は視覚ででしか東日本大震災を捉えることはできていないのに何やら感傷的になったものだが、こうした話を複数聞くことによって、自分は何も分かっていないのではないのだと痛感させられた。動画をみて分かった気になって偉そうにしていた自分をただただ恥じている。

今日は防災に関する教育を少し実施した。一応阪神淡路大震災は経験したものの、当時1歳ぐらいで、もちろん何も覚えていない。それを除けば、まともに災害は経験したことないし、被災地に訪れたこともない。真面目にはしたが、それでも重みのある話をするのは難しい。うちの職場は若手がかなり増えて、阪神淡路大震災のこともろくに知らない同僚が増えていく中で、そうした防災教育をそれぞれの教員に丸投げしてしまうのは、やはり少し残念であるように感じられる。もちろんクラス規模によってできることは大きく変わりはするが、それでも何かしら我々自身が共通した認識を持っておくべきだろうし、それを異口同音に生徒に伝えるということも非常に大事であるように思う。何よりも、その内容面を検討する時間があるだろうにもかかわらず、何年間もそれを放棄してしまっている指導部に遺憾の意を感じざるを得ない。私自身は生徒に学んだことを話させるのみで終わってしまったが、意外と生徒は話を聞いているもんだと感心した。

明日はついに国公立大学の後期入試である。本日を以て、私が担任する生徒への進路指導は全て終了した。色々と反省すべき点があまりにもありすぎて、今からここに書くほどのゆとりもないが、同僚が今よりもさらに上を目指そうという点で、モチベーションを共有できているのは非常に嬉しく感じている。前期入試の終了後から私自身は精神的に衰弱しきっていたが、三日連続でこうやって振り返りの日記を書くまでには回復することができたので、こうやって自分と文章を書くことで討論して、まずは今までの自分が何をしてきたのか、どの部分に課題があったのか、それをどうやって改善すればいいのかということについて、この一週間ぐらいでぼちぼち考えられればと思っている。ただ、特に私自身が問題だと感じているのが、生徒の読解力の低下という部分なので、来年度の世界史の授業においては、今までのように単なる知識伝達の授業ではなくて、もう受験や教科書内容を度外視して、読解力育成に努めていかねばならないと感じている。今までやったことのないようなことに挑戦していかねばならないが、少しずつそう言ったところも準備していければと考えている。