2月11日(木)

気づいたら日記を書かないまま5日間ほど経ってしまった。

何の反省もせずに1日を過ごしているので、えらく1日の経過が早い。といっても、最近はそれでもそこまで忙しくないので、少しは心の余裕が作ることができているのではないかと思う。ただし、朝が弱いので、出だしが失敗すると、それを引きずった情けない1日になってしまう。陸上の試合でもそうだったが、スタートに出遅れてしまうと、途中から巻き返すのにはかなりのエネルギーが必要になる。スタートをうまく切れるように、前日の夜から出来る限りの準備をしていくということが重要だ。

記録を怠るようになると、どうしても反省もなくなる。なぜ記録を怠るのかというと、記録媒体をアクセスしやすいところに置いていないからだ。Onenoteにしても横に固定しておくのは何かに集中する上では邪魔になってしまうが、集中した作業以外は横に固定しておいて、自分が何をすべきなのかということを常に意識させたい。私はすぐに忘れてしまう。これを自覚しなければならない。そのために今様々な仕掛けを試みているのだ。

生徒指導面で多少のトラブルがあった。今の学校関連のニュースを見ていると、いつか自分も加害者として扱われることもあるのだろうな薄々感じてはいたが、それにしてもあまり気持ちの良くないタイミングだ。教員としての叱責というよりも、一人の人間としての正義の怒りを感情のままに発散してしまったというところはプロ意識の欠如として反省すべき点であり、ただでさえ忙しい上層部をさらに忙しくさせる要因を作り出してしまったという点において非常に申し訳なく感じる。指導方法についても、いわゆる「2020年代的な」価値観においては、不適切という指摘もなされると思う。とはいえ、指導内容について問題点があったかというと、今回においてはハッキリなかったと断言できる。私は私のすべき職務を遂行したのみであり、問題は当該生徒がいかに指導内容を理解し、それを言動として示すことができるかどうかのみである。私の言動が適切か不適切かどうかを論じること自体がナンセンスである、とまで感じている。もちろん私も人の子であるので、間違った指導を行ってしまったことは何度かあるし、それについては謝罪した上で反省をしている。自分自身が完璧な人間であるということはつゆほども思っていない。しかし、今回については譲ることができない。これ以上保護者が指導にケチをつけてくるようであれば、その保護者が指導される要因を生み出している(いた)ということを申し上げる必要があると思う。つまり、今回のケースについては、保護者が当該生徒に対して、適切な躾をすることができていなかったということである。そのような躾もろくにされていない者が、矩を踰えてしまったことが今回の問題である。

あとはろくに添削ができていないので、そこを手際よく処理していかねばならない。でなければ、どんどんと添削書類が溜まっていくのみだ。これぐらいの人数で手間取っていたら、他の先生に対して全く示しがつかない。少しぐらいは役に立つ人間になれるように、自分の範疇で済んでしまう仕事以外にも手出しができるように、まずは自分の仕事を手際よくこなせるようになりたい。そのためには今は自宅での時間をどう過ごすかが大きな問題だ。まずはデスクを片付けることによって、目の前をスッキリさせて、仕事に気持ちよく取り組める環境を作らねばならない。これは自宅だけでなくて、職場でも同じだ。今はそれなりに時間がある。そして、大体この3年間でやるべき仕事は見えてきた。だからこそ、やるべきタスクに最適化された環境を作り出したい。それで他の人に貢献できたら、それが結局は自分が気持ちよく過ごすことのできることにつながっていく。

あとは手がかなり治ってきたのが喜ばしい。今までは手のことが大きなストレッサーになっていたので、何ヶ月かぶりに手袋もせずに人前に出れるようになったことは大きな進歩である。この状態を維持できるように、ケアをこまめにやっていきたいし、そのためには心の余裕と適切な時間管理が必要である。

全ては自分がやるべきことが常に見えているかどうかに集約される。逃げずに向き合おう。